五節供キックオフ講演会「五節供の謂れと歴史」神崎宣武氏

2018年4月25日(水)10時と14時の2回に分けて和食文化国民会議(以下、和食会議)の新たな取り組みである「五節供」の推進に向けて、「五節供キックオフ講演会」を開催致しました。 ここでは講演会における神崎宣武顧問の講演要旨「五節供の謂れと歴史」を公開します。

五節供を取り上げるということは、重要な事である。その中で、五節供の歴史・由来を、俯瞰をして、共通の知識として位置付けられないかと思っている。

日本での「節供」とは

神崎宣武 氏

日本では、季節の変わり目や、農作業の変わり目等に、いろいろな行事を行っていた。
それをセチ(節)と呼んでいた。もう一つ、地域によっては、オリメ(折目)ともいっていた。セチ(節)にもメをつけて、フシメ(節目)ともいったが、多くはセチと呼ばれていた。私たちの先祖たちがその土地に住んで農業を行なうようになり、特に、日本では稲作が重用された。定住性が高まり村が出来たころから、行事化がなされていった。こうした、農業のセチ・折目や漁業のセチ・折目に、そして人生のセチ・折目に、つつがなく物事が進むように、更に安定するように行事が行われたのだ。

これは、世界共通の発生というものだが、時代を経ることによって地域で変化していき、分化していった。根・幹が共通であって、さらに枝・葉に分かれる。これが、文化といわれるものである。日本のセチ・折目という考え方は、最近まで伝わっていたが、高度成長期に大きく変わった。それまでは、それぞれの地域で、独自のセチ行事が行われていた。鹿児島県の奄美大島では、田の神祭(1月14日)・日待ち(10月15日)・農神祭(10月亥の日)などであり、奈良県下でも、埼玉県下でも独自に行われた。行事は、大括りにすると、農事歴である。田んぼに水を引き、稲を育て、穂が成長して、無事に収穫を迎える様に折々に祈願していた。何々神社の神に頼むということではない。それは、歴史を経ての後のこと。農事歴でいう田のカミは、神社の祭神とは違う、社を持たないカミであり、八百万の神のひとつである。現在でも、わたしたちの日本人の信仰感は、「自然崇拝、先祖崇拝」をまだ引きずっている、といえようか。

これをアミニズム(自然信仰、すべてのものに霊が宿る)というが、この考え方をここまで持ち続けているのは、世界の先進国では日本だけである。原初にさかのぼれる伝統文化ということで、誇りにしてよろしいだろう。

話は変わるが、富士山が世界遺産で登録されているのは、自然遺産ではなく、文化遺産である。日本各地にある霊山霊峰のその象徴が富士山なのである。その山を表す言葉として、山頂、山腹、山麓がある。山麓は、人々が自由に開発して田畑や家を作ることができるところ。山腹は、山の幸を得るところ。木を伐る、キノコを採る、山菜を取るなどする。そして神の領域となる山頂は「山のカミ」(神社の神と区別するため「カミ」と表記)の領域とする。峠は、このように書くが、以前は、山に礼と書いた。カミの領域である山頂域を通るときに、礼拝をするという意味であった。

山のカミは、正月になると歳がカミとして里に降りてきて、節分になると田のカミとなり水口に鎮まる。そして、八朔(旧暦の8月1日、現在の9月の頭にあたる)過ぎれば山のカミとして、山に帰っていくものであった。八朔は、現在ではほとんど忘れられているが、稲穂が実り収穫が見えてくる重要な時期である。

このように、山のカミは、原初万能神、アミニズムの代表神である。たまに、山のカミの分霊は山に帰らないで、主婦(子孫繁栄のための女性)に乗り移るともいわれた。主婦を山の神と言うようになったのはそのためである。またこのカミは、大黒様とも言われる。こうした自然神を崇めるのは、日本では今でも地方ごとに根づいている。

この山のカミは何に依りついて山から降りてくるのか。関東から北では、ゆずり葉に乗って降りてくるといわれる。現在でも北関東では、しめ縄にゆずり葉をはせているところがある。一般的には、松に乗って降りてくるとされる。神が乗り移ったものであるから松を大事にし、家の門先に立てる。これを門松という。

こうした民俗慣行を、わたしたちは伝えているが、何故そうなのか、説明ができない。日本に来て頂いている海外の方々に、そしてこれからを託していく次世代の子ども達に繋いでいくことが、今回の五節供プロジェクトの取組みを進めていく意義の一環であると、私は理解している。

中国から伝来した「五節供」

人日(1月1日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)。中国では、奇数が重なる日を忌み日(忌み嫌う日)とし、縁起の悪い日とされた。

日本では、奇数を尊ぶとなったのは、江戸時代からで、昔は陰陽道でいうように、陰と陽、天と地というように偶数がたっとばれた。中国では、忌み日には、引きこもり、身体を休め滋養のあるものを食べて邪気を払った。

中国からのこの忌み日が宮中に伝わった。その後、江戸幕府に入った。江戸幕府は、大名の管理が何よりも重要であった。260ほどの藩があり、その連合体が江戸幕府であった。幕府の取締り規制の最大のものが、参勤交代であった。江戸詰めの大名は、時々に江戸城に呼ばれ登城しなくてはならなかった。将軍に拝謁し、盃を組みかわした。日本にとって重要な正月と八朔を加えて、五節供が定例の登場日。ただ、1月1日の人日については、正月と重なるため1月7日に行うこととして、7回が「公日」となった。この江戸城での公の行事が、江戸の町にも伝わっていく。江戸は、たくさんの国々から人々が集まっているため、皆が共通して楽しめる行事がもてはやされた。新たにできた七福神はそのいい例で、どこからも文句の出ない位の低い神様たちが乗り合いでできている。その民間に伝播する中で特に、3月3日の上巳を雛祭、5月5日の端午の菖蒲祭り・武者祭、7月7日の七夕の星祭が特化・変化して今日にいたっている。

「五節供」、旬の料理と酒

中国でも、日本でも折目・節目を無事に越すには、生命力を秘した食べ物を食べた。

とくに、日本では、神様に供え物をして共食した。稲作を尊んできた日本では、手間をかけてのごちそうが「餅」と「酒」となり、それが、草餅や柏餅、桃酒や菖蒲酒、菊酒となった。七夕の餅・酒は夏の暑さの中での保存や美味しさという中で敬遠され、重陽の節供の団子は、収穫前で、コメが無い、また小粒であるなどで団子にして餅の代用とした。

料理
人日 七草粥・餅粥 屠蘇酒
上巳 草餅 桃酒
端午 ちまき・柏餅 菖蒲酒
七夕 - -
重陽 団子 菊酒

最後に、五節供は、現代において、慣習こそ残ってはいるが、歴史・謂れについては、忘れられている場合が多い。今後、五節供を含めて、和食文化を保護・継承するにあたり、五節供を通じても、さらに理解を深めながら、海外の方や次世代の子ども達も含めてどのように伝えていくかが課題であり、皆さん方に期待するところである、との話で閉められた。