「第1回 調査・研究部会」清 絢氏

2018年7月30日(月)第1回 調査・研究部会における調査・研究部会幹事 清 絢氏の講演(第2回目)

清 絢氏

華やかな江戸の七夕

『東都歳時記』(1838)国立国会図書館デジタルコレクションより

『東都歳時記』(1838)には、江戸時代後期の七夕の様子が描かれている。家々の屋根よりも高く、たくさんの笹飾りが立ち並び、風に揺れている。江戸では庶民の間でも盛んに七夕が祝われ、七夕前には、七夕飾りの笹竹や短冊などを売る店が並び、大変な賑わいだった。

文政頃に描かれた浮世絵『文月西陣の星祭り』には、切り分けたスイカを運ぶ女性や器に入った素麺が描かれており、当時七夕に食べられていたようだ。

代表的な行事食・素麺

素麺は古くから七夕に食された記録があり、『尺素往来』(1481頃)には「かじの葉の上の索餅は七夕の風流」、『北野社家日記』の長享3年(1489)の記事には、「七夕素麺」の文言が見える。

索餅は素麺の原型と考えられており、奈良時代に中国から伝来した唐菓子の一種。小麦粉に米粉を加えて塩水で練って、縄のようにほそくねじって、茹でて和え物にして食べたもの。あるいは油で揚げても食べたといわれる。

このように、遅くとも室町の中期から後期には七夕に索餅や素麺を食べる習慣があったと考えられる。

江戸庶民も食べた素麺

『江戸名所百景』
国立国会図書館デジタルコレクションより

江戸庶民の七夕はどのようなものだったか。例えば、『進物便覧』(1811)は贈り物や進物の手引書であるが、「七夕に素麺を贈るのは盆の祝儀なり」とある。また、『東都歳時記』(1838)には「家々冷素麺を饗す。」と、江戸では一般の人々にまで素麺を食べる習慣が浸透している様子がうかがえる。 

徳川将軍家の七夕の献立にも素麺が、京都の公家の七夕の膳にも素麺があり、江戸後期には身分の高い低いにかかわらず、七夕には素麺を食すという習慣が広まっていたと考えてよいだろう。

子どもが主役だった大阪の七夕

江戸では盛んに祝われた七夕だが、大阪ではどうだったのであろうか。『守貞謾稿』(1853)には、大阪では「書道を習う児童だけが笹飾りや短冊を飾り、七夕を祝っていた」とあり、大阪の七夕は江戸ほど盛大な行事ではなかったようだ。

『摂津名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより(赤枠筆者)

江戸時代の大阪を描いた『摂津名所図会』(1796)には、大阪の中心部を流れる長堀川の橋の上に子どもたちが集まって、橋の上から下を流れる川に七夕の笹飾りを投げ入れる様子が描かれている。 

そんな大阪では、江戸と同じく素麺やスイカを食べ、焼き物にはカマス、てんぷらも並んでいたと、幕末の大阪の様子を記した『浪華の風』(1855-63)には記されている。   

『諸国風俗問状答』に見る各地の七夕

『諸国風俗問状答』(1815-16頃)から、各地の七夕の様子を見てみると、例えば現在の兵庫県淡路島では、「茄子、ささげ、素麺など」を供えていた。『諸国風俗問状答』には全国約20地域の七夕の風俗が記されているが、そのうち素麺も供えると回答したのは、前述の淡路(兵庫)に加えて、大和高取(奈良)、天草(熊本)の3箇所しかなく、意外と少ない。江戸では市民権を得た素麺だが、全国的にはそれほど浸透していたわけではなかったようだ。その他の地域ではおおむね、旬の野菜や果実が供えられていた。

その他、福島県では、農家はうどんで七夕を祝っていたとある。これは七夕の時期がちょうど小麦の収穫期にあたるためで、農村部では新小麦を用いたうどんやまんじゅうなどを行事食として作る地域もあった。 

夏には高温多湿となる日本、七夕の時期には食べものはすぐに傷んでしまっただろう。行事食にも手のこんだものは作れなかったというのが実情で、素麺にスイカや瓜などの夏野菜が中心だったようだ。

長寿を願う菊花酒

『豊歳五節句遊』
国立国会図書館デジタルコレクションより

菊花酒は、古代中国から重陽の節供に飲用され、日本でも古くは宮中行事であった平安時代頃から飲用されてきた。そうした習慣は江戸にも引き継がれ、江戸初期の『日本歳時記』(1688)には、重陽に「栗子飯を食ひ、菊花酒をのむ 」とあり、また、江戸後期の『東都歳時記』(1838)には「菊花酒を以て節物とす」とあり、長らく重陽の節供に欠かせない酒であった。   

「栗節供」と呼ぶ地域も

重陽は別名「栗の節句」ともいう。『諸国風俗問状答』(1815-16)から、栗に関しての記述を見ると、現在の広島県福山市では「赤飯に栗を入れる」とあり、小豆と栗の入った栗飯が食されていたと想像できる。兵庫県淡路や新潟県長岡などでも栗飯を食していた。こうした記録は各地に散見され、特に農山村では栗を用いる事例が目立った。

茄子が目立つ関東

現在の東京都世田谷区の記録『口訳 家例年中行事 -上町大場家-』には、重陽の節供の献立について「朝夕とも、有り合わせ何でも魚付き祝う。一汁、香、三菜、例の通り。但し、茄子を用いる。」と茄子を用いるように記されている。    

関東では、9月9日、19日、29日の3回の9日を「三九日(みくんち)」や「おくんち」などと呼んで、農村部では秋祭りや収穫祭を行う地域が多い。これらの日に茄子を食べる習慣がよく見られ、その茄子のことを群馬では「オクンチナス」、茨城では「三九日(みくんち)なす」などと呼んだ。これは、9のつく日に茄子を食べると中風にならないとの伝承に由来するとも言われる。

大阪では松茸市が立った

大阪ではどのように重陽の節供を祝ったのか。『浪華の風』(1855-63)によると、重陽には栗や柿・葡萄を用意し、料理には松茸、魚は鱧を使って客をもてなしたとある。この中でも特に松茸と栗が特別だったようだ。

『摂津名所図会』
国立国会図書館デジタルコレクションより

『摂津名所図絵』(1796)には、天満の市場では九月の重陽の節供の2、3日前から松茸と栗の夜市が並び、たいまつやちょうちんで明るく照らされ、大変賑わっているとあった。