「五節供―重陽について」神崎 宣武氏

2018年8月22日(水)普及・啓発部会における神崎宣武先生の講演(第2回目)

神崎 宣武氏

五節供―重陽について

9月9日は、「重陽の節供」である。「菊の節供」ともいう。

重陽の節供の原型は、古代中国にある。中国の古俗では、邪気を祓うために茱萸(シュユ) を髪に挿したり柱に吊るしたりすることが行われた。

シュユは、日本ではグミとされる。が、植物学のシュユは、ミカン科のゴシュユ。茱萸という言葉は、「歳時記」の類にも伝わる。

「この日に、茱萸の嚢(ふくろ)をぬいてひじにかけ、山に登りて菊酒をのまば、災いは他に転じて身はつつがなく過ごせる」という故事が伝わる(『続斎楷記』)。

中国における重陽の祝事は、やがて日本に伝播し、平安初期に宮中の儀式として取り入れられた。ただ、貴族社会の雅風にとどまっており、一般の認知は薄かった。

それが、江戸時代になると、幕府によって五節供(正月7日=人日・3月3日=上巳・5月5日=端午・7月7日=七夕・9月9日=重陽)が公日として定められた。

なかでも重陽は、もっとも公的なものとされ、城中儀礼として諸大名以下が登城して祝った。そこで、とくに菊酒を飲む習わしが大名層のなかで復活したのである。

菊酒は、キクの花を浮かべた酒で、これを薬酒とみたてた。古代中国での菊酒との比較はむつかしいが、ここに日本的な「見立て酒」が成立した、とみてよいかもしれない。

しかし、それは、まだ民間にまでは広まらなかった。農山村では、秋の収穫期と重なるこの時期、収穫にまつわるさまざまな行事があり、節供の行事をあまり厳格に行えなかったからだろう。ただ、「栗節供」とも呼ばれたように、その日は栗飯を食するところが多くみられた。

ここで、あらためてその時期についてことわっておかなくてはならない。節供にかぎらず、年中行事の多くは、かつては旧暦(太陽太陰暦)で行われていたのである。現行の新暦(太陽暦) では、約1ヵ月遅れの10月初旬のころにあたる。

そこで、菊も栗も、旧暦をもってはじめてなじむのである。他の節供では、草餅や柏餅などの餅が重要な供えものになるが、ここでは団子。それも、収穫前の端境期で米櫃の底には小米ばかり、という状況を想像すればわかりやすいだろう。小米ゆえに臼で粉にひき、団子にしたのである。

現在では、この菊の節供の印象がさらに薄らいでいる。ひとつには、3月の雛まつり、5月の端午のまつり、7月の七夕のように、子どもたちが行事にからまないからであろうか。

古酒甘し 今日は黄菊の色に出る(蘆白)