「五節供―人日・上巳について」神崎 宣武氏

2018年12月4日(火)和食セッションにおける神崎宣武先生の講演(第3回目)

神崎 宣武氏

五節供―人日・上巳について

1月7日は「人日の節供」である。この日、七草粥を食する習慣が広くみられる。

周知のとおり、七草粥は、粥に餅と七草(セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ)を入れたもの。七草は、もともとは早春の野山に自生する若菜である。新年にあたり、こうした野草を食すると、その強い生命力にあやかり病気をせず長生きができる、とされたのだ。

若菜を摘み、それを食することは、日本でもすでに平安時代から行なわれていた。『小倉山百人一首』にも、「君がため、春の野に出でゝ若菜摘む」と光孝天皇が皇子時代に詠んだという歌がある。ただ、当時、それはまだ貴族社会での習慣であったし、若菜の種類も定まってはいなかった。右のような七草を特定して用いるようになったのは、幕府が正月7日を五節供のひとつに定めてから、としなくてはならない。そののち、まずは江戸の町でそれが年中行事として定着した。

『東都歳事記』(天保9年=1838年)にいう。

「若菜(人日)御祝儀諸矦御登城。今朝貴賎七種菜粥(ななくさながゆ)を食す」

また、『絵本江戸風俗往来』(明治38年=1905年)には、さらに詳しい。

「正月もはや七草となるや、町家は家業に従事するより心に隙(ひま)なく、武家は七種(ななくさ)までは新年の武務に忙しく、七種過ぎより追々平務(ふだん)に復す」

というほどに、武家と町家のあいだには、幕末のころもなお隔たりがみられたのである。

武家の七草粥は、次のような方法にしたがって行なわれた。

「六日の宵は家々の古式、(中略)御台所掛りては紋付小袖に麻上下を着し、遠土(とおど)の鳥の渡らぬ先より、恵方に向かい若草を打ちはやす。ストトントン、戸々に響く。この日門の松飾り・〆縄は取り払い、翌七種は若菜の粥を食べけるは、当日の祝なりける」(『絵本江戸風俗往来』)

節供祝いだけでなく、正月のコトジマイ(事じまい)も行なう。江戸幕府が、他の節供を同じ奇数の月日(重日)と定めたのに、この人日の節供のみを1月7日としたのは、あるいは、武家社会における仕事はじめにあわせるための操作であったのかもしれない。ちなみに、中国の古い暦法では、人日は1月1日とするのである。

いずれにせよ、この武家社会における七草粥のつくり方が町人社会を経て全国各地に伝播した。江戸も後半のことであった。

といっても、庶民社会への浸透には地域差が大きく、「七草の節供」の知識は通じても七草粥を食べるようになったとはかぎらない。

しかし、明治以降は、各地で類似の事例が増えてくる。

若菜は前日の6日昼のうちに摘んでおく。これを「若菜迎え」といった。そして、夜になってから、粥に入れるためにこれを刻む。そのとき、なるべく大きな音をたてて刻むのがよいとされた。これを「菜をたたく」ともいった。

とくに農村部では、それにあわせて大声で七草づくしの歌を歌うのが流行(はや)った。これを「七草を囃(はや)す」という。その唱え言葉は、地方によって多少違うが、そこからわかるのは、七草の行事が農作物を食い荒らす鳥を追い払う「鳥追い」の行事と結びついて発達したものである、ということである。そのところで、都市の行事作法との違いも生じるのである。

「七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地に渡らぬ先に、七草たたけ」

これに類する囃し言葉が各地に伝わっている。

唐土の鳥とは、何であるか。中国の伝説のなかにでてくる怪鳥、とされる。名は、鬼車鳥とか。正月の夜は、中国からその鳥が飛んできて、子どもの衣服に血の滴りを落とす。落とされた子どもは患うというので、この鳥を追い払うために俎板を打つ、と巷間では伝えられている。

ということは、すなわち季節の変わり目に邪気悪霊が忍び込むことを未然に防がんがためのまじないにほかならない。こうした節供の伝承では、本来は系列を異にするさまざまな俗信が複合するものである。音をたてて俎板をたたく・粥を撒く・近所の粥を食べ歩く・洗い水に爪をつけるなど。いずれにしても、そうした俗信を重ねることで、まじないの強化をはかったのである。

3月3日は、「上巳(じょうし)の節供」である。「雛の節供」とか「桃の節供」ともいう。

ここでは、人形(ひとがた)による祓いに注目したい。簡単には、紙を切り抜いた人形で体を撫で、息を吹きかけて穢(けが)れを移す。そして、その人形を川や海に流す。農山村の節供では、「雛流し」(流し雛)が古い習俗であった。上巳の節供のそれは、「巳(み)の日の祓い」といった。現在も、鳥取県下や和歌山県下などに、桟俵(さんだわら)に乗せた紙折り雛を川に流す行事が伝わる。

時代とともにそれが派手派手しくなり、遊戯化もする。現在、一般化している雛人形は、流し雛が装飾化された極みにある、とすればよいだろう。その過程で、地方ごとに板人形とか土人形も流行した。

雛人形市が立ち、今日風な雛人形が売られるようになったのは、江戸の町で元禄のころ(17世紀後半)である。ちなみに、室町雛といわれるのも室町起源にあるのではなく、京都風ということで、元禄雛に含まれるものである。そして、江戸時代を通じて、段飾りはなお一般的ではなく、机の上に毛氈を敷いて近親者から贈られた雛を順不同に並べておくのがふつうであった。

段飾りがでてくるのは、江戸も後期から、地方に広がるのは、明治以降のことである。

「女子の節供」と呼ぶようになったのも、雛飾りの普及にあわせてのこと。そして、都市を中心に行事が遊戯化すると、そこにさまざまな俗説が生じることにもなる。

たとえば、「女子のまつりだから甘い白酒…云々」。しかし、その説は間違いというもの。たまたま江戸の酒屋「豊島屋」が灘からの下り酒(清酒)が荒波で届きにくくなる2月末に濁酒(にごりざけ)<味醂(みりん)と酒糟(さけかす)を混ぜ合わせたもの>を店頭に並べたのが人気を呼んだにすぎない。

もとは、家族みなが「桃の酒」を飲んでいた。桃は、古代中国で、邪気悪霊を祓う神聖な樹木とされた。そのため、桃花を散らしただけの酒も呪力を秘めた酒とされたのである。薬酒のひとつに数えてもよいだろう。それが、日本にも伝えられた。

『日本歳時記』(貞享5=1688年)にも、「三日桃花を取て酒にひたし、これをのめば病を除き、顔色うるほすとなん」、とある。これが、節供の「食養生」である。

その意味では、草餅をこのとき食するのも、旬の生命力を授かる食養生の伝統である。

時どきに行事の次第が変わるのはいたしかたないこと。古来不変なものなどありはしない。そこで、ひとつの行事だけではなく、関連の行事もつなげてみることで、はじめて本義がみえてくることも多い。

節供の本義は、家族全員が参加しての祓い(まじない)と食養生にあるのである。